「トランス・ペアレンタル・コントロール」をみて

2021年3月28日、多摩美術大学大学院情報デザイン領域在籍の臼井達也と花形槙による二人展「トランス・ペアレンタル・コントロール」を見に新宿眼科画廊を訪ねた。私は同院の芸術学専攻出身であり、今回の寄稿は学生時代から仲良くしている花形からのお誘いによるものである。

同展示を知った時、まずその展覧会名に興味を持った。「トランス・ペアレンタル・コントロール」という言葉にはどの様な意図が込められているのだろうか。「ペアレンタルコントロール」とは、親が子供の情報端末に対して視聴年齢制限を適用する仕組みであり、特定のWEBサイトやアプリ、サービスなどにアクセスできないようにすることで、青少年を性的表現や暴力表現から守るためのものである。一方「トランス」は「変換」という意味や、催眠やヒステリーといった精神の異常状態によって引き起こされる、知覚や思考の異常性や自発性の消失を指す言葉でもある。

DMにはこのように書いてある。

「本展では、それぞれの作家が捉える現代における主体の不在性と、それに替わって存在するものは何かを問う。 (中略) 両者の作品は、主体を失った存在から浮かび上がる強烈な身体性を喚起する。そしてそれは、それそのものが放つ自己自律的な―トランス・ペアレンタル・コントロールともいうべき―不確かな状況を呼び起こす。」

客体が主体によってコントロールされている構造を解体し、新たな構造に変換する。これが今展示の作品たちの共通点であるようだ。この変換は「主体の喪失」によって生み出される。主体が剥奪された残骸が強烈な身体性を帯びているのなら、喪失した「主体」とは例えば表現しようとする意志や理性、といった精神的なものだろうか。そんなことを思いながら会場に向かった。

余談であるが、私が所属していた芸術学科は、情報デザイン学科とは同じ棟にあるお隣同士である。学部時代は「怪しげな連中が面白そうなことをやっている場所」というイメージがある程度の認識だったが、院に進学して交流をしていくうちに彼らの興味対象を少しだけ理解することが出来た。

面白いと思ったのは、主にデジタルメディアやデジタル技術を用いて作品を制作する彼らの内に「人間の身体性」をテーマに活動している者が少なくないという点である。昨今、巨大スクリーンの映画やVRゲームなど、従来のものに比べてより没入感のあるデジタルメディアが普及してきており、その様な技術に日常的に触れる者も多くなってきた。私もその様な人間の1人であるが、没入すればするほど自分の身体が取り残されていくような感覚に陥ることがある。デジタルメディアに身を置けば置くほど、自身の身体の存在感が高まっていくというジレンマがここにはある。デジタルメディアと身体の関係性について関心が高まることは必然なのかもしれないと感じた。

花形槙の《still human》は、作家本人によるパフォーマンスを映像に収めた作品である。パフォーマーは足先にカメラ、頭部にヘッドマウントディスプレイを装着し、足先のカメラの映像を頼りに様々な場所を探索する。つまり、「つま先に眼球があったらどうなるのか」という実験である。視覚が足先カメラにジャックされることにより、前後左右、目線の高さといった視覚情報がちぐはぐになる。普段、特別意識することなく取り込んでいる視覚が全く別のものに変容してしまうのである。

ギャラリーで話してくれたのだが、花形は以前、後頭部にカメラを装着して視界を前後逆転させたことがあるらしい。その際は、まだ他者とのコミュニケーションも取りやすく、普段通りの思考が出来たそうだ。しかし今回、足先にカメラを取り付けてみたらそれが全く不可能になってしまったという。《still human》でのパフォーマンスは、視覚の変容によって目の前のものを観察することや上手く移動することに精一杯なる結果、言葉で考えたり、周りとのコミュニケーションをとったりする余裕がパフォーマーからなくなり、理性の消失とも言える状態を作り出すことができるのである。

しかし、《still human》はただの理性の消失のみにはとどまらないパフォーマンスに思えた。視覚の変容によって所謂理性は失われるが、そこには確かに思考や周囲の環境とのやり取りが存在している。映像の中で、パフォーマーは変容した視覚に沿った体の動かし方を次第に獲得する。新たな身体に沿った新たな思考回路が想像されていると言ってもよい。《still human》は理性無き思考、身体による思考の存在を浮き彫りにする。

言語と思考は良く繋げられて捉えられるが、《still human》にてあらわれたものは、より非言語的でプリミティブなものである。しかし、この思考は同作によって新たに生み出されたものではなく、私たちが常日頃から身体の内に陰に隠し持っているものである。例えば、室内楽やバンドなどでセッションについて考えてみたい。演奏者同士は言葉のやり取りこそはしないが、そこにはコミュニケーションが確実に存在している。この様な非言語的な思考やコミュニケーションによって行われる人の行為は数えきれないほどあるだろう。何をもってして理性の消失と捉えるのは難しいが、言語的思考の外側(むしろ根幹、内側かもしれない)にある非言語的思考が存在していることは確かであり、《still human》はこの「身体的思考」ともいえる働きをむき出しにして鑑賞者の前に暴露するパフォーマンスであると言えるのだ。

また《still human》は、視界を変容させられたパフォーマーがどの様に世界を認識し思考するかという観点に加えて、その人間が他者からはどの様に見えるのかという観点も含んだ作品である。パフォーマーは効率的に移動するため、四つん這いになり後ろ向きに進む。最初はパフォーマーが「後退」している様に見えるが、しばらく見ているといつの間にか「前進」しているように見えてくる。さらにはカメラのついた片足が動物の頭部に見え、何か人間ではない他の動物を見ているような気分になる。

私はパフォーマンスする花形を見て、生まれたての小鹿を連想した。ヘッドマウントディスプレイとカメラを装着した異様な人間がなぜ小鹿のように見えるのか。それは四つん這いで移動する姿以上に、慣れない体で周りの環境を観察し、適用しようとしている姿に動物的な要素を感じたためであろう。歩き方も分からない状態の動物が、試行錯誤を重ねながら次第にその身体に適した歩き方を獲得していく。この過程が多くの哺乳類の幼体に見られる成長の過程と重なるのである。この過程は正に「身体的思考」の一つではないだろうか。《still human》は視覚の変容が人間から理性を剥奪し、動作や思考にまでも影響を及ぼすことを明らかにした作品であった。この現象を通して「身体と思考の密接な結びつき」が露わになったと考える。

同作における「主体の不在性」とは何かという点について考えたい。花形自身もパフォーマンスを通して理性や言語的思考が失われたと語っていたし、DMの説明から考えると、「失われた主体」とは身体の対にある精神・理性であるように思われる。しかし、人間にとって理性が主体であり身体が客体であるかと考えると、必ずしもそうとは言い切れないのではないだろうか。人間はふと「食べたい」と思ったから何かを食べるのではなく、胃が空っぽになるという身体的要因によって「食べたい」と感じるために何かを食べるのである。しかし、どこで何を食べようかと行動を決定するものは何かと考えると、それは理性である。理性と身体は主客の関係というより、相関関係にあると考えられる。《still human》は、人間から理性や思考という主体的要素を取り除くパフォーマンスというより、言葉と身体の間を行き来する「思考」というプロセスの所在の曖昧さを表出させることによって、理性と身体の主客関係そのものを否定するパフォーマンスであるように思える。同作における「主体の不在性」とは、主客の関係性にある構造から主体を剥奪する行為によってではなく、主客の関係性そのものを崩壊させる行為によって引き起こされるものなのではないだろうか。

臼井達也による写真作品《Only on the iPhone @shinjuku》は新宿駅周辺の家電量販店に展示されているiPhoneから来店者が撮影した写真データを収集し、大判印刷した作品である。iPhoneで撮影された写真データは撮影された日時や場所といった様々な情報が紐づけられるが、まだ誰のものでもないiPhoneによって撮影されたこれらの写真は、撮影者についての情報のみが抜け落ちている。加えて、ピンボケや画面の端に映りこんだ指等、画面から感じられる撮影者の痕跡は「ここにはいない誰か」の存在を鑑賞者に意識させる。家電量販店のiPhone内にはこの様な、無作為で無責任に撮影された写真が埋蔵しているのである。

《Only on the iPhone @shinjuku》を見てまず連想するものは、やはりファウンドフォトである。同作とファウンドフォトは、撮影者不詳の写真を用いて作品を構成する点や第三者の撮影した写真を発見して取得するプロセスが類似している。しかし、いわゆるファウンドフォトで扱われるようなヴィンテージ写真とiPhoneで何気無く撮影された写真は、そのあり方が大きく異なっている。時代にもよるが、ヴィンテージ写真が撮られた当時は、機器や撮影環境といった様々な要素の調整やフィルムによる枚数制限により、一枚一枚慎重に撮影されていただろう。一方、iPhoneは手軽に撮影できる上に枚数制限もほぼ無限であるため、撮影という行為のハードルが著しく下がり、特別意識せずに行われていることが多い。両者とも同じく撮影という行為ではあるが、これらを取り巻く意識や行為の性質は全くの別物であると言える。《Only on the iPhone @shinjuku》で用いられる写真は、ファウンドフォトで扱われるような写真に比べて、より無作為的なものであると言える。無責任に、無作為に撮影されるがために、指の映り込みやピントのずれというエラーが起き、撮影者は自らの痕跡を残してしまう。ここに、今展示におけるテーマである「主体を失った存在から浮かび上がる強烈な身体性」を見出すことが出来るのではないだろうか。

無責任かつ無作為な撮影という構造は、写真の指標的性格を強調する。指標(index)とは対象と物理的な結びつきを持った記号のことであり、チャールズ・ S・パースによって分類された記号の三つの働きの内の一つである(残りの二つは「類似(icon)」、「象徴(symbol)」)。足跡や指紋といった痕跡も指標記号のひとつであると言えるだろう。たとえ写真のように限りなく写実的なリンゴの絵を描いたとしても、絵とリンゴは物理的な関わりを持たないため、これは指標記号とは言えない。写真とは基本的には光の跡という物理的な現象でしかなく、絵の様にそれ自体に何かを表す意味合いは含まれていないのである。《Only on the iPhone @shinjuku》は店内風景や展示机の指標であると共に、ピンボケや画面の隅に入り込んだ指によって、撮影者自身の指標にもなっている。

また写真の指標性は、鑑賞される状況に応じて鑑賞者の受け取り方が大きく変化するという特徴を生み出す。写真それ自体は特定の意味を内包しておらず、鑑賞される文脈や観る者によって意味が付与されるのである。家電量販店のiPhone内の写真を、ギャラリーで作品として展示する《Only on the iPhone @shinjuku》は、正に写真の指標的性格を体現した作品であると言えるだろう。一点考慮しておきたいのは、昨今の写真はデジタルメディアであるためフィルムのような化学反応を用いない上に、加工技術の発展や普及によって指標的性格が薄れており、一方の絵画においても、抽象絵画には指標的性格を持つ作品もあるため、絵画と写真を記号的分類で線引きすることは最早適切でないのかもしれないという点である。

思えば、写真に撮影者の痕跡が写り混んでしまうという構造は非常に面白い状況である。撮影とは基本的に被写体を枠内に収める行為であるため、被写体ではない撮影者の存在は画面からなるべく排除されるものだ。最も撮影者の痕跡が残されるものとして自撮りを挙げることができるが、これは撮者自身写されるべくして写された被写体であるため、偶然写り混んだ指等とは全く異なる性質のものである。展示場などで風景写真等を見ているとき、自身の視点と画面を重ねることで、自身が風景そのものを見ているかのような感覚に陥ることがないだろうか。写真は視覚の再現としてあまりにも出来が良いため、しばしば鑑賞者の視点そのものとして扱われるのである。しかし、その画面の端に指が映りこんでいることに気が付いたらどうなるだろうか。撮影者という第三者の存在が突然現れ、風景を見ていた際の没入感は一斉に失われる。非被写体という意識の全く外にある存在が映りこむことによって、写真は「視覚をシェアする魔法の窓」としての機能の一切が奪われ、その物理的なプロセスや構造が鑑賞者の前に暴露されるのである。さらに、《Only on the iPhone @shinjuku》はiPhoneのデジタル写真を引き伸ばし、巨大な画面に印刷して展示していることも一つの特徴である。トーマス・ルフの「jpeg」シリーズを彷彿とさせる画面は、遠くから見るとはっきりと見えるのだが、近づくにつれて画面の粗さが気になってくる。良く見ようと近づけば近づくほど像がぼやけてくるという、現実の対象とは真逆の働きがこの画面には生じている。写りこんだ指や近づくにつれて見えてくる画面の粗さといった仕掛けによって、写真のフェイク性と、そこにいない誰かも分からない撮影者の存在が強調され、「視覚をシェアする魔法の窓」という鑑賞者主導の享受の仕方は崩壊する。ここに同作における「主体の不在性」を見出すことが出来るだろう。

「トランス・ペアレンタル・コントロール」を通して、「主体」と思われる存在の曖昧さ、不安定さを痛感した。同時に、肉としての身体、紙としての写真といったフィジカルな存在の強さに驚いた。今展示において、主体/客体という二項対立的な捉え方自体が最早意味をなさないのかもしれない。精神と肉体の狭間でカオティックに翻弄されてしまう方がよっぽど面白い。そんな風に思わされる展示であった。